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believe2011.05.23
家業が眼鏡屋であった私にとって「眼鏡」という存在は身近なものではありました。
幼少期の眼鏡に必要性を感じなかった頃は全く関心のない物で、中学2年生の頃のある日、体育館の時計が見辛いことに気がつき、わずかな時をはさんで黒板の文字がだんだん見辛くなった時、初めて眼鏡を意識するようになりました。
今から20年ほど前の中学生の私にとって眼鏡は「ダサい」の代名詞であり、見えないから仕方なく掛けるものになりました。高校に入ると両親に頼みこんでコンタクトレンズを使うようになり、それ以来家では眼鏡、外ではコンタクトという生活を10年近く続けることとなりました。
紆余屈折があり、眼鏡学校に通うようになっても基本的にその「ダサい」という感覚はほとんど変わることはありませんでしたが、快適な「見る」ということを天職とすべく自分としては結構まじめに勉強していました。この頃一番影響を受けたのは眼鏡のフィッティング(掛け具合の調整)で、骨格にあわせて調整を行うことによって目の前の異物である「眼鏡」が恐ろしく不快感の無いものに感じられるようになることは非常に衝撃でした。「眼鏡の持つマイナス因子の一つが無くなる!」
そしてある日、世の中には見たことも無いようなデザインの眼鏡達が存在することを知ります。それらを骨格や装用者の雰囲気に合わせて掛けることによって、「ダサい」どころか素顔のコンプレックス部分を補うとっておきのアイテムになることを体感します。
長年抱いていた眼鏡を掛けたくないという気持ちが180度変わり、眼鏡を掛けたいと思えた瞬間でした。そんな感動があるモノだから私たちがそれを伝える意味がきっとあると信じています。
写真:影郎デザインワークス/JAPAN モデル/BARAMON